昭和46年10月01日 朝の御理解



 御神訓 一、「悪いことを言うて待つなよ、先を楽しめ。」
    
 こういうあり方にならせて頂けば、絶対のおかげです。確かに先を楽しませて頂いてることが、本当に実現する。これはあらゆる宗教家が同んじ意味のことをいっておりますね。「悪い事を言うて待つな、先を楽しめ」必ずその楽しい事が実現する、悪い事ばかりをいいよると悪い事が実現する。困った困ったといいよると必ず困った事が起きる、有難い有難いと喜んでいると必ず有り難い事が起ってくる。そういう意味の事はあらゆる宗教家がいっていると思いますね。
 それは表現は違いましても、これは一つの大真理とでも申しましょうか。人間が本当に楽しい生活というか、幸せになってゆくためにはそういう思い方をさして貰い、そういう思い方が出来るように努め精進する。不平不足をいわん、先はどげんなるか分からんと言った様な暗澹たるその思いとか表現とかと言う事はもう人間が幸せにいくためには大禁物である、いわゆる禁句ですね、そういう事は例え心に思うても言葉に出して、思う事でも実際いけないんですけれども、口に出して言う事はいよいよ良くない。
 嘘にでも言うならばよいことを嘘にでも「有難い、有難い」というとらにゃいかん。ところがなかなか事実はなかなかそんな訳にはまいりません、けれどもそれはこれはいわゆる大原則ですね宇宙の。例えば絶対腹を立てないと言う様な事に徹して行くだけでも、やはりこのおかげに繋がる、それに腹は立てる不平不足はいう悪口は言う。例えば生長の家の谷口さんなどがいってることはそうですね。
 例えばその病気というものはこの世にはないのだと、だから病気をしとっても「病気じゃない病気じゃない」といえと、思えというふうないい方をしています。やっぱりそれは一つの理なんです。「子供でも決して叱るな、誉めてやれ」と、うちの子供は頭が悪いから、お前ばっかりは頭が悪いお前はバカ」とそういうから頭がわるくなるんだバカになるんだ。「あんたも勉強すれば素晴らしいその頭脳をだいたい持ってるんだ、頭いいんだ、」というていきゃあ自然頭が良くなるといった意味のことをいっとられる。
 これは谷口さんに限りませんね、やはりあらゆる宗教がそれと同じ意味のことをいっとります。ですから私共がだんだんおかげを頂いてまいりまして「悪い事をいうて待つな、悪い事でもいうたら勿体無い、先を楽しませていただく心が自ずと湧いてくる、そう言う事になってこなければなりません。どういう難儀な中にあっても「有り難いことですなあ」と夫婦の者が親子の者が話し合えれるどんな難儀な中にありましても。
 有り難いなあと、どんなに考えても有り難いぞとそういう有り難い事実を日々体験していくことを教えて頂くのが信心です。また事実どういう難儀な問題を抱えていましても、そこから道が開けてくる、そこから成る程おかげと思わなければおられない事実が体験として生まれて来る。ですからこの信心を育ててさえいけば、必ずおかげが受けられるという先を楽しませて頂ける心が自ずと生まれて来る、世には楽天家というのがあります、また生まれながら非常に心気病みの人がいます。
 神経が小さい、それが心配で心配でたまらん。もうとにかく何というのですかね、白菜の漬物を漬けてから、そのまま食べ切らん、それを熱湯で消毒する、お漬け物の味もなにもない、そんな人があるんです、神経病みです。もう外へ出るたんびにおもてに入り口に消毒液を置いといてから手をずうと消毒して手は消毒液でバサバサになってしまって、私の知った人にそういう人があったです。自分かたの家と人の家と行ったら足袋をぬぎ替えるという人もあります。それまたそんな人もありました、実に神経質。
 そんな人の上にはですね、もう絶対幸せはやって来ないですね、良かろうことあっても幸せに成れません、不幸せになります、そうかといって、又どんな状態であろうが、ここ信心しとっても、信心しよるから何時かどげんかなるじゃろうと言った様な考えの人があります、何十年経っても同んなじ、けれども楽な事は楽なですね。楽天的で生まれつきの人は、生まれつきに神経病みとか、生まれつきに楽天的だとかと言う事は、ここでは当てはまりません。
 お互いが信心によって悪い事をいわんで済むようになり、いわゆる、不平不足を云わんで済むようになり、悪口などいわんで済むようになり、お先真っ暗のような考え方をしないで済むいわゆる、心に光明を頂くから、日々の体験からそれが生まれてくるから、おかげになると確信できれる、しかもそれを思うただけでも楽しゅうなる、そういう生き方に私ならして頂く信心を頂かなければいけんのです。なるほど楽しいおかげが受けられるわけであります。
 ところがです、御道の信心によっておかげを受けると言う事は、天地金乃神様の願いが教祖生神金光大神の御取次によって、私ども人間氏子の上に実現してくるというおかげでなければならんのです。そこんところが他の宗教と違うと思うんです。ただいま申しますようになるほど不平不足を云わんで先を楽しませてもらう。口からでる例えば言葉一つにでも心遣わしてもらう、不平不足を云わずさきを楽しませてもらう、そういう生き方にならせていただければ、必ず楽しい事に、幸せなことになってくる。
 だからそこまでは私はあらゆる宗教家が同じような意味のことをいうておる。けれども唯私が楽しい生活が出来るようになると言う事だけではない、金光様の信心は、天地金乃神様の願いというものはそれだけではない、天地金乃神の願いというものが教祖生神金光大神の御取次の働きによって人間氏子の上にそれが実現してくるところのおかげでなければならん。その実現体というか、実現の姿というものはどう言う事であらねばならないか。なるほどおかげを頂いている、そのおかげがです。
 いよいよ世のお役に立たせてもらういよいよ道の働きを十全にしてゆく、いよいよ親のことは子が頼み子のことは親が頼み合いしていけれる道の実現、いうならば、あいよかけよで立ち行くことのおかげが 現れてこなければならない、私が助かったと言う事は、私が楽しい生活が出来るようになったと言う事は、金光大神も天地金乃神様もやはりおかげを受けて下さる事に繋がっていなければならないというのである。御取次ぎの道の実現と言う様な言葉が使われますのはね、私はそう言う事だと思うんです。
 私達の願いの根本の願いというものはね、そこんところに焦点が置かれていませんとね我侭勝手な願いになってくる訳であります、人はどうでも良いと言う事になってくるのです。教祖さまの御教えの中にもお言葉の中にも、自分の家の前を清掃する、清らかに掃わくそれはどこまでも世界の清まりに繋がっていなければならないというのです、だから自分の処だけをきれいにしてから、あっち掃わきこっち掃わきしてから自分の前だけがきれいになるだけではいけない。
 自分だけがおかげを受けたんではいけない、成程自分の前だけをきれいにしているのではないけれども世界の清まりに繋がっていなければならない、ただ自分のとこだけが清よまっても他のところがもう汚くなっているから同じこと、そういう思い方そういう考え方を根本にして「悪い事をいうて待つな」というものになってこなくてはならない、そういうことを根本にしての「先を楽しめでなからなければならない、私共が助かるということが自分の周囲が助かることに繋がっていなければならない。
 果たしてそういうような思いをさせて頂きながら、本気で信心、によっての助かりを願っておる人が私どれぐらいあったかと思いますね、成程先ずわが身におかげを受けてと仰るからおかげを受けなけばければならないことは事実、けれどもそのおかげが隣近所にも潤うてくる程しの願いを持たなければならないと言う事。そこで悪いこというて待つなとか、先を楽しませていただける心というかそういう信心修行というか段々覚えてきそういう事が出来てくるおかげを頂くために。
 私共が日々の改まりも無く、本心の玉を磨くものぞやと教えられるのに磨く姿勢も取らずしてこういう考え方は絶対生まれてこない。もし生まれてきて「否、金光様の信心しよるけんどげんかなろうと思とりますというような楽天的な表現でいうならいえれるかもしれませんけど、それではおかげにならん。私どもが日々の改まりに、信心とは本心の玉を本気で磨くものであると言う事をです、だからそこに精進努力、「まめな時家業を疎かにし物事に奢ること。」
 例えばこの御神誡そういう例えばそういう心の状態、例えばお金ならお金がチョコッとあるとそれを乱費する、要らん物まで買う直ぐ贅沢になる、物事に奢る、そういう心がね例えば日頃の生活の中にあってこういう先を楽しませるようなおかげ思い方ができるもんじゃない。ここから学院にまいっとります 私は必ず月ずき一人五千円ずつ送っています。先日聞かせていただいた話しですけど、教会から修行生のところに五千円ずつ送っている処は大阪の玉水教会がそうだそうです。
 やっぱり五千円だそうです、私の思いと同んなじだなあ、と思うたそれでも十分だと、それが足らんと言う様な事があって良かろうはずがない。これはあちらに学問授業料納めんでいいけれども、色々買うたりそれからというて人に借りたりするようなことあってはならんので、それだけのことはさしてもらう。それだからというて内の修行してる先生方や修行生にはお金をやらん。必要な時にはいうて下さい。
 私がね何故そういう例えていうならば、酷なね、ことをするかというと、本気で信心によっておかげを受けて行こうと姿勢を作った人達ですから、ここで修行でもするということは。あなたがたのうえにどうでも必要なお金でありゃそれはおかねの高は言わん、神様にお願いして出させて頂く、けれども平生は私はやらん、必要に応じて二千円やったり3千円やったり、まあケチな話です、けども学院生だけには絶対五千円ずつ送る、ここを離れて勉強に行っているんですから。
 しかし内にいるのは私の側にいるのだから必要な時には親にお金を貰うように何々だからというてさえくれたら、要るだけは私が上げるという訳である。そう言う事ではなかなか貰いにくい、こっちは気の利いてやらにゃんことも知って、けどそれをしない、何故かと言うと、結局自分自身の身の程を分かってもらいたいからです、そして神様にお願いさしていただけば必要な事は必要に応じてだんだん頂けてくる、いわばその神様の働きを体験して頂きたいからです。
 わざわざお会食をさせたり、日に二食しか頂けない頂けません二食ですから、そういう窮屈の中に神様の本当の神愛を悟らせてもらい、又自分たちの布教にでも出た時の稽古を本気でしておけと。成程この神様はこういう心の状態にさえなりゃ不自由はせなさらん、身分に相応した働きではありますけれども、例えば衣類なんかでも私は決してある上にあげるとか、作って作ると言う事は致しません。けど学院に参ります時には、さあっと修行生には勿体無いぐらいの衣装、衣装といっても黒衣ばかりですからね。
 学院生には恥ずかしい思いをすることはいけないと思いますのでぜんぶ新調させてもらいます。でも内で新調さして頂いたものはボロボロになるまで着てます、この頃は弘道先生は膝から下は無か、夏ですから、袴なんかちぎれてるボロボロになって、それでも私は見て見らん振りしてる。そこからね、いわば自分の身に着いてくる衣類自分の身に着いてくるお金、物、食物それ全てをです。
 なるほどこの行き方で行きゃあ、だからこちらの信心がもっと高められたらもっと良い物も身に着いてくるんだという事実をね体験しといてもらいたいというのが私の願いなんです。「マメな時家業を疎かにし、物事に奢る事」と言う様な事を実際をもってここで行じている訳です。ですからこれは修行生だけのことじゃありません、信心してる皆さん方も同じことです。
 現在自分のその生活状態、生活状態と言った様なものが果たして自分の分相応な生活が出来ておるか分相応の生活がそれはなかなか難しいです、こんくらいな事は当たり前だろうと思いますよ、例えていえば収入なら収入から割り出していかなければいかんです、例えば1万円の収入しかないならばやはり8千円の生活をしていかにゃいかん、5千円の収入しかないならば4千円位のところまで切り詰めていかにゃいかん、そして10万円の収入があることになったら、贅沢しなさんなと言う事はない。
 そんなら5万円の生活も8万円の生活もそれはいいでしょう。だから贅沢と言う事ではない、それは私は最高の生活が出来るようにならなければいけんと思う。神様がくださってる衣類でも食べ物でも、それ分に応じた生活が段々高められていくおかげを頂かにゃいけんと思う、だからそれは贅沢でないわけですね、10万円とる人が8万円の生活をするのは贅沢でない、とそういう見方ですね、そういう生き方をせんと「まめな時家業を疎かにして物事におごる事」になる。
 だからそういう例えば状態でここで言う「悪い事をいうて待つなよ、先を楽しめ」というようなね、信心しよるけん先はどげんかなるじゃろうと思うとるのは楽天的な考え方、ギリギリ自分に相応しい、自分に釣り合うた生活をさして頂き、しかも本気で信心とは本心の玉を磨くものぞ、日々の改まりが第一だという処にいつも焦点を置いて、しかも助かって行く、助かりの根本をです、天地金乃神の願いが生神金光大神御取次の働きによって人間氏子私どもの上に実現して来る様なおかげを願わしてもらわにゃならん。
 それでいて悪いことを云わんですみ先が楽しませて頂けるなら、あなたの信心は本当の信心をなさっておられる。それなら絶対先を楽しませて頂けれるだけの、楽しませて頂けるだけのおかげは約束されているも同じこと、いうなら水ももらさぬ信心と言う事になりましょうかね、私がお話ししてることは。けれども自分がその気になったら、これは出来ることです、自分なちったあ奢り過ぎとると気付いたら、生活の程度をひとつ落として見ることなんですから。
 ほんなこと信心とは本心の玉を磨くもの、日々の改まりが大事、そこに焦点がいつも置かれてある。そういう姿勢をいつも取っておる、問題が起こる、その問題を通して改まろう、その問題を通して本気で磨こうということになる、しかもです、先を楽しんでおれば必ず楽しい事が起こってくる、これはあらゆる宗教家が説いた、説いておることですけれども、金光教の信心は唯先を楽しめるおかげを受けただけではいけない。
 言うならば徳ともなり、しかも神も助かり親も助かり子供も助かり、神も立ち行きゃ氏子も立ち行くというおかげに繋がっていなければならない、そこで自分の庭先をはわくにいたしましても、世界の一部が清まっておるんだと言う様な思い方溝へゴミは、はねくりやっとくと言った様な、それではいけない、そういうものが身に付いてしまうと言う事ですよ信心とは。
 そこから信心さして頂いていることは有難い事じゃなあと夫婦が親子が話し合える家庭環境が生まれてこないといけん。成程今日もやっとかっとその日暮しのことであったけれども、これが出来ると言う事は何と有難い事じゃろうかのうというて家庭中が話し合える家庭環境がうまれないとだめです。昨日三十日の月末の一と月のお礼を申さしてもろうた。一時からここで輪を描いて信心の四方山話をさしてもろうた、毎月。
 昨日秋永嘉郎さんがいってました、僕の内容にないから分らんけれども先日親先生夫婦を福岡にお芝居を見えた時に支那料理をご馳走になったその時皆が立ってしまった時に「ありがたいなあ」と親先生がいうておられる、奥様と二人で話しておられるのを聞かせていただいて、本当にこっちまでありがとうなってくる」というのです、それをどういうて表現していいか分らんけども内容がないから、けどああいう風に気を持たせられるということがね,何とすばらしいことかという意味のことを話しとられます。
 私と家内の場合は「どう考えてもありがたいこと」これだけなんですいつも。今ここで「結構毛だらけ」のおかげを頂いてますよね、そんならそういう時代ではない、本当に今晩いただいたら、明日食べる物がありませんよという時代でも同じであったと言う事なんです。今日は今日、明日は明日でお願いして行けば明日は神様がおかげ下さるぞ、と明日を楽しんでいる、そこには必ず身分に相応しい即応した食べ物が
   (途中末尾切れ)